ルーシーとラッパズイセン

2012年04月18日

   
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  あたりはすっかり、冬景色である。明るい季節には、花で埋まるイギリスの風景はいま、厚い灰色の雲の中。公園や街角、家々の窓辺、庭先で、花たちは装いを地味にして、じっと息をひそめている。

  こんな時期に待ち遠しいのは、スイセンの花開くころである。スイセンが咲くと、春はもうそこまで来ている。イギリスでは、ラッパズイセンが主流だ。まだ肌寒い冷気の中で長い首を伸ばし、黄色い花をつける。そして、ラッパに似た愛嬌のある口を持ち上げて、やわらかい春の陽射しを呼び込んでくれる。

  派手ではないけれど華があり、華奢なようで、丈夫である。群生すると静かなエネルギーを周囲に放つ。「芯の強い」花、なのだろう。

  ラッパズイセンは、ウェールズの国花である。イングランド、スコットランド、北アイルランドとともにイギリス連合王国を構成するウェールズは、長いあいだイングランドの支配下にありながら、辛抱強くケルト系の固有の言語や文化を継承した。忍耐強い国の象徴として、ラッパズイセンはふさわしいように思える。

  ウィンブルドンで、ラッパズイセンのように芯の強い、ウェールズ人の女性と知り合って、親しくなった。ルーシー・パーキン。42歳、4人の子どもの母親である。医師としてバリバリ働いていたが、小児科医の夫と結婚後、次々に子どもを産んだ。13歳を頭に男の子3人と、その下に女の子。しばらくはパートタイムで働いたが、5年前に娘が生まれてからは、仕事をやめて母親業に専念している。

 志を立て、長い時間をかけて勉強し、医師になった。「仕事に復帰したいと思わない・・?」と聞いてみると、「いいえ、今は子どもを育てることのほうが大切だから」と、迷いはない。子どものために自分を犠牲にしているという意識はなく、子育てが「何よりもやりがいがあって、楽しい」と言う。つまり、ルーシーは医師の仕事よりも、育児の喜びのほうにより大きな価値を見出しているのである。

 

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 「子どもたちの成長をそばで見ていてやりたい。必要なときに援助の手を差し伸べることができるように」。母親の自分が仕事に熱中していては、わが子の微妙な心身の変化を正確に読み取り、対応することはできないだろう、と彼女は言う。子どもとの「信頼関係」は、なんでもない日々の触れ合い、かかわりあいの中で築かれるものだから。

 子育て期という、短いけれども、後から思えば人生の中で最もきらきらした充実期を、あくせくと働くだけで過ごしたくない。濃密な親子の時間の一刻、一刻を大事にしたい、とルーシーは考える。

 実は、いまのイギリスでは、ルーシーのような女性は決して珍しくない。優秀な職業婦人が、家庭を持つと、さっと仕事を辞める。あるいは、パートタイムに切り替える。

 10年前なら、子どものある女性は仕事をしていないと、「ただの母親」とみなされた。しかし、時代は新たな段階に入っている。

 この夏、発表された統計では、ひとりの女性が生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)は、2008年に、過去35年間で最高の1・96人となった。イギリスはいま、ちょっとした「ベビー・ブーム」である。社会が再び、母親の仕事に敬意を払うようになって、女性たちはすすんで子どもを産み、育てている。

 子育てを重視する姿勢は父親も同じで、家庭での時間をもっともちたい、という男性が格段に増えている。こんな風潮を背景にして、政府はこの何年かで、育児休暇の延長や、柔軟な働き方の容認、保育環境の整備など、次々と家族政策を実現させた。来年の総選挙を控えたいま、各政党は競って、男女が育児と仕事を両立させられるような新政策を打ち出している。

 ルーシーは、仕事をあきらめたわけではない。週に一度、小児アレルギーを専門にする夫のクリニックに出かけ、ボランティアで仕事を手伝う。医師としての勘がにぶらないように、研鑽(さん)を積んでいるのだ。

 彼女はいつか、ときが来たら、職業人としてまた花を咲かせたいと思っている。

 故郷のウェールズは、1999年に初めて議会をもって以来、何百年にわたるイングランドの支配から離れ、独自の政策を開花させた。ルーシーもうろたえず、長い目で人生を見渡している。先を急がず、賢明に。

 ルーシーにはやはり、辛抱強いラッパズイセンが似合う。

 

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※初出は日英フラワーアレンジメント協会報、2010年1月1日