イギリスの桜と日本の桜


2013年3月24日

 

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 イギリスでも桜が咲きはじめた。いま咲いているのは、「チェリー・プラム」と呼ばれるスモモ系の桜。これから、いろいろな種類の桜が次々に開花し、街は華やいでいく。長く厳しい冬はようやく終わり、春への扉が大きく開いたのである。

 桜といえばソメイヨシノが3月末から4月にかけていっせいに開花し、全国の街という街を淡いピンクに染める日本の光景を見慣れた人には、イギリスの桜の風景はちょっととまどいがあるだろう。桜はここでは、いっせいには咲かないうえ、色もまちまちだからだ。まず、いちはやく2月の末ごろにピンクのチェリー・プラムが開花し、そのあと、濃いピンクや白、赤に近いピンクなど、ちがった色の花が順々に咲いていく。木の背の高さや形も様々である。

 ひとつの桜が花を終えると別の桜が咲き、それが終われば今度はまたちがう桜、といった具合に、開花の連鎖はゆっくりと、5月はじめまで続く。この時期のイギリスの気温は、日本に比べるとかなり低くて寒いぐらいなので、一本一本の花の期間も、日本より長い。そしてふつう、桜は並木をなさず、住宅の庭や公園、道路のわきに単独で立っていることが多い。

 イギリスで植樹されている観賞用の桜のほとんどは、もともとは近代になって日本から来た。だからイギリス人は「チェリー・ブロッサム(桜の花」」といえば日本、と連想する。桜が日本を象徴する特別の花であることも知っている。しかしこの国では、桜は日本とはちがう春の風景をつくったのである。

 

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 イギリスでもじつは、桜の歴史は長い。ヨーロッパ原産の「ブラックソーン」は、田舎でよく見られる桜で、初秋に小さな青い実(スロー)をつける。低木で丈夫なので、昔から生垣などに利用され、実はジュースにしたりジンに入れたりして飲用されてきた。次に、ローマ人が紀元前後にイギリスに持ち込んだといわれる、食用の赤い実をつける「サクランボ」の木。人々はサクランボをデザートやジャムに広く利用するようになり、この桜はイギリス人の暮らしに深く根づいた。チェリー・プラムもこの種類である。

 そして、ビクトリア女王時代の19世紀後半に、日本から観賞用の桜がやってくる。大英帝国の最盛期、世界各地からいろいろなものがイギリスに持ち込まれた勢いにのって、「サクラ」も海を渡ったのである。20世紀に入ると、ロンドンの東にあるケント州の植物収集家、コリングウッド・イングラムは3度日本へ足を運び、多くの桜を持ち帰った。イングラムは日本の桜とヨーロッパ原産の桜を交配させて多くの新種を作り、またたく間に桜の権威となって「サクラ男」と呼ばれた。
 
 200年余の鎖国を終えて世界に姿を現した極東の日本から、浮世絵や陶器、根付けなどとともに、美しい桜がはじめてヨーロッパに紹介されると、「日本ブーム」が起きた。イギリスに来た桜は、「アサノ」、「ヒサクラ」などと日本の名前がつけられ、愛好家のあいだで熱狂的に受け入れられた。こうして「ジャパニーズ・チェリー」は各地に植えられるようになり、イギリス人の暮らしに馴染みのある木となっていった。

 

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 桜が到来したころに生きたイギリスの詩人、アルフレッド・エドワード・ハウスマン(1859年―-1936年)は、1879年にこんな詩を詠んでいる。

 

       数ある木々のなかでも
       桜は一番、美しい
       いま、桜は森の小道に
       満開の花をつけて枝を広げる
       復活祭(注)にふさわしく、
       白い花の衣装をまとって、たたずんでいる

       70年生きるであろうわたしの人生は
       すでに20年が過ぎ去った
       70回めぐりくる春のうち、
       20回は終わったわけだ
       あと50回しか、春はこない

       この美しい桜の花を
       50回くる春に愛でるだけでは、少なすぎる
       わたしは森へ桜を見に行こう
       たとえそれが、雪に覆われた桜であっても   
  

                         ( “一番美しい木”  )

 


(注)キリスト教で、イエス・キリストの復活を記念する祝日。春分後、最初の満月のあとの日曜日に行われる。

 20歳の青年詩人は、森にたたずむ「一本の」桜の木に、自分の人生を重ね合わせてみた。桜はイギリスの春の風景の一部となり、身近な存在になったとはいえ、イギリス人は日本のように桜を並木にするのではなく、単独の木として楽しむことを好んだようだ。

 

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×××

 

 ちがった桜があちこちで咲く、イギリスの桜の風景を見ると、私はこの国に40年近く住んで和太鼓の演奏活動を続けている、廣田丈自(ひろたじょうじ)さんのことを想う。廣田さんは、ロンドンを拠点に各地で演奏会を開くと同時に、若手の和太鼓奏者を多数、育ててきた。そのなかには日本人だけでなくイギリス人奏者も大勢いる。廣田さんはイギリス社会に、和太鼓の伝統を揺るぎなく根づかせた人である。

 5年前のちょうど桜の咲くころ、私は二男の賢司が通っていたロンドンの小学校で、他の日本人家族とともに、廣田さんと4人の若手日本人奏者を招いて和太鼓の演奏会を開いたことがある。彼らは勇壮なはっぴ姿で現れ、宮太鼓、締(しめ)太鼓、大締(おおじめ)太鼓のほかに、高さ2メートル、直径1メートルを越す大太鼓も駆使して、力強くダイナミックな和太鼓の演奏を繰り広げた。聞きに来た学校長や150人を超すイギリス人親子らは深く感動し、いまでも彼らの演奏のようすは、学校で伝説的に語り継がれている。

 和太鼓演奏といっても、廣田さんのそれは和太鼓に打楽器を組み合わせた、きわめて独創的なものだ。日本海の荒波を思わせる和太鼓の激しいリズムと地響きのなかに、シンバルやドラム、鐘の音色を軽快に、時には優美にしのび込ませる。そこには日本の太鼓と西洋の打楽器が混じり合う独特の音楽の世界が広がる。廣田さんはもともと、京都市立芸大で打楽器を勉強し、打楽器奏者として渡英したという。しかし、日本人が西洋で生まれた打楽器を演奏することに限界を感じ、和太鼓に目を向けた。そして、徐々に和洋を混合させた、だれにもまねのできない創作芸術をつくり上げたのである。

 廣田さんの和太鼓は、伝統に新しい要素が加わって普遍性をつけ、西洋の地で花開いた。それは、日本で生まれ育った桜がのちにイギリスにやってきて新種をつくり、独自の風景を繰り広げたことに、とても似ている。両者に共通するのは、音楽や風景をひとつの色に染めあげるのではなく、多様な色を尊重すること、つまり、異種混合のエネルギーを秘めていることである。


    

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(演奏する廣田丈自さん) (廣田丈自さんと4人の和太鼓奏者


  


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 ソメイヨシノに染められる、日本の桜の風景。私は子ども時代の大半を日本で暮らし、学校の入学式や卒業式、入社式など、あらゆる「門出」をソメイヨシノとともに迎えたので、ソメイヨシノは大切な思い出の風景の一部である。しかし、ところ変わってイギリスの桜の光景を目にすると、桜は一様ではなく、土地によってちがう景色をつくることに気づくのだ。
 
  じつは私も、ごく最近まで、ソメイヨシノの光景は日本古来の桜の風景だと思い込んでいたひとりだ。これは大変な思いちがいだった。2005年に日本で刊行され、話題をよんだ「サクラが創った「日本」」(佐藤俊樹著、岩波新書)によると、ソメイヨシノが観賞用桜として開発されたのは江戸末期のことで、全国各地に植えられるようになったのは明治になってから。いまある木の大半は昭和天皇の即位のときや、終戦後、復興を祈って植樹されたものだという。さらに、桜は本来、同じ木のおしべとめしべのあいだでは受粉できないので、種子から育てれば親とは違った個体になるという。ソメイヨシノはすべて、接木や挿木で増やされる、いわゆる「クローン」の木なのであった。

 ソメイヨシノ以前の日本では、ヤマザクラやエドヒガン、カンヒザクラ、オオシマザクラなど、土地によって色や形のちがう桜が咲き、花見も、様々な桜を見て楽しむことがふつうだったそうだ。また、桜の開花時期はそれぞれずれていたので、全体としてみればほぼ1か月間、人々は桜を楽しんでいた。江戸時代末期までは、国土のほぼ全域をひとつの種類の桜が覆うことは、なかったのだという。

 ソメイヨシノが現在、桜の8割を占めるほど日本列島を覆いつくしたのには、いろいろな理由がある、と佐藤氏は指摘する。ひとつは、その新しさ。開国後、近代化を急いだ日本で、新しく生まれた桜を伝統や由緒をもたない場所に植えて行くのは新鮮だったし、何よりもソメイヨシノは他の桜に比べて成長が格段に速いうえ、接木や挿木で増やすのも比較的簡単なので、短期間に景観を整備するのにはとても便利で経済的だった。近代国家への脱皮を目指す新しい日本の成長に合わせて、ソメイヨシノは時代の先端をいく景観づくりの一環としてまとまって植えられたのではないか、と佐藤氏はいう。そして、第2次世界大戦後には、復興の象徴として、ソメイヨシノは加速度的に全国に植樹されていった――。

 この本はまた、明治末期から大正、昭和にかけた日本でナショナリズムが生まれ、軍国主義の台頭とともに戦争に突入、敗戦にいたった過程で、桜が意図的にナショナリズムと結びつけて語られ、ことさらその「散り際」の潔さを強調した時期があったことにも触れている。

 

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 桜はもともと、本家の日本でも多種多様だったのであり、「いっせいに咲き、いっせいに散る」ようになったのは、ごく最近になってからのことだったのだ。それなら、かつての日本の桜の光景は、いまのイギリスの景色に近かったのではないか――。
 
 日本に260品種あるといわれる桜の多くは、ソメイヨシノの勢いに押されて、いまではすっかりすみに追いやられてしまった。「多様な桜」と「ひとつの桜」の風景を思うとき、その背景にある文化土壌にも考えを及ぼさずにはいられない。同一のものが幅をきかせると、ちがう性質のものは、はじかれる。それに対し、多様なものが混在すれば、それらは互いにぶつかり合い、刺激し合って新たな力を生む。廣田丈自さんの和太鼓演奏の源泉も、異種混合のエネルギーだった。
 
 いろいろな桜が混在するイギリスは、まさに異種混合の社会である。この国は過去30年間ですっかり「多民族国家」となり、多様な民族と文化が混在するようになった。2012年夏のロンドン・オリンピックでは、陸上の女子7種競技で金メダルをとったジェシカ・イニスさんをはじめ、メダルを獲得した選手の多くが、移民の子孫や移民とイギリス人の間の混血だった。多様性を内包する社会には、躍動する生命の活力がある。

 

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 2年前の桜は、「悲しい桜」だった。春がきたというのに、涙なしには桜を見ることができなかった。未曾有の震災と津波、原発事故の被害のようすがイギリスでも連日、報道され、大きなショックが広がった。世界有数の経済大国であり、地震など自然災害への事前準備をきちんと整えていた日本であれほどの災難が起きたということが、人々には信じられなかった。恐ろしい自然の底力、またいざという時の原発の危うさ、もろさに、全世界があっと驚きの声を上げ、固唾(かたず)をのんで進展を見守っていた。

 あのとき、ロンドン在住のニュージーランド人女性が、「桜を見るたびに、日本の惨事を思って悲しくなる。どうか、私にできることがあったら言ってください」とのテキストを、私の携帯電話に送ってきた。ここに住む人たちはみな、咲き誇る桜の花を見て、遠い日本へ想いを寄せていたのだ。実際、想いだけではなく、政府やNGO(非営利組織)は被災地に救援部隊を派遣し、また大勢の人が募金活動を行った。私も、いてもたってもいられず、息子の学校で募金活動をした。イギリスのメディアでは、悲しみにじっと耐え、すべてを失いながらも復興に向けて強い意思をあらわしていた東北の被災者たちの姿が盛んに伝えられ、その勇気と精神力がたたえられた。

 津波で桜の木もさらわれてしまっただろう。しかし、あの東北の人たちの芯の強さを桜にたとえるなら、人工的に植えられたソメイヨシノではなく、もともと東北の地にあった寒さに強いオオヤマザクラや、濃い紅色のカスミザクラの強さではないだろうか。辛抱強くて、簡単には散らない、野性の桜である。

 東北には、復興の象徴として、ソメイヨシノではなく、多様な桜を植樹したらどうだろうか。桜には冬に咲くフユザクラだってある。それらは成長に時間はかかっても、じっくりと力強く、大木に育っていくだろう。そのほうが、お上の手によって再びソメイヨシノを植えられるよりも、ずっといいような気がする。日本に古来からあった、異種混合の桜の本来の力を、東北の人々の復興にかけるエネルギーにつなげることができるように思うのだ。


                           

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 ※本文中のハウスマンの詩は原文から著者、あべ菜穂子が翻訳しました。