花園と廃墟

2012年10月14日

 

 

20121015044204335 (ウェールズの山荘の花園)


 数年前の夏、ウェールズの田舎で家族とともに、1週間の休暇を過ごしたことがある。

 滞在したのは、ティンターン村という、ウェールズ南東部の渓谷にある小さな村だった。ウェールズ特有の、そびえたつ岩と濃い緑の森に囲まれ、清流の音と小鳥のさえずりしか聞こえないような、静かなところだった。

 ウェールズは、イングランドやスコットランド、北アイルランドとともにイギリス連合王国王を構成する地域のひとつで、王国の南西部に位置する。長いあいだイングランドの支配下にあったが、1999年に地域の議会と行政府を持つようになってから独自性を発揮し、一躍注目を集めはじめた。ケルト系の固有の文化と言語をもち、大半が山地という土地柄のなかで、いまなお緑あふれる美しい自然を保っていると聞いて興味をそそられ、この地を訪れることにした。
 
 ロンドンから西に200キロの道を車で走り、ウェールズに入ると、英語とウェールズ語の両方で書かれた道路標識が目につくようになり、イングランドとはちがう文化圏に足を踏み入れたことを実感する。吸い込まれるような濃い緑の丘陵と牧草地の景色を見ながら南北に流れる「ワイ川」に沿って北上すると、渓谷についた。

 宿泊した山荘は、思いがけず、「花園」のなかにあった。門から建物までの小道の両脇に赤、黄、白のバラ。その先の前庭には、あざやかなピンクのガクアジサイ、バラのように大きなオレンジのベゴニア、紫、赤のペチュニアなど、色とりどりの花々が咲き誇り、それらが周囲の緑一色の風景の中で、きわだって強い色彩を放っている。玄関先では、見たこともないほど大きな紫とピンクのフクシアが、あでやかな姿で私たちを招きよせた。

 「ようこそ」と、管理人夫妻のフレッドさんとアイヴァさんが迎えてくれた。みごとな花園は、このウェールズ人の老夫妻の手になるものだった。夫妻は、長年イングランドで構えていた住居を何年か前に引き払って故郷に戻ったといい、新居の大部分を山荘として訪問者に貸し、自分たちは棟続きの小さな空間で暮らしていた。アイヴァさんがひと通り家の使いかたを説明して、「ではごゆっくり」と立ち去ると、花園の家は1週間、すっかり私たちのものになった。

 裏庭に出てみると、前方には広々とした牧草地と丘の連なる雄大な景色が臨めたが、左側の石の壁を隔てた向こう側に、黒々とした廃墟が見え、少し不気味な雰囲気が漂っていた。そこは、花たちのにぎやかなおしゃべりが聞こえてきそうな山荘の華やかさとは対照的に、しんとした静寂に包まれている。

 廃墟は、中世にこの地で栄えた「ティンターン修道院」の遺跡だった。表からは見えなかったが、花園と廃墟は、背中合わせで並んでいるのであった。花舞台の裏に眠っている、数百年前の荘厳な歴史を知りたくて、翌日、さっそく遺跡を訪ねた。

 

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(ティンターン修道院の廃墟)


 廃墟では、白いガウンをきた男性のガイドが、案内してくれた。なかに入ると、その大きさに圧倒された。聖堂部分の外壁と内部が、幾度かの修復を経たとはいえ、ほとんどそっくり残っているのだ。屋根こそないが、聖堂の身廊と側廊、聖職者席などは姿をとどめており、ゴシック建築に独特の細長いアーチ型の窓や柱が、優美な曲線を描いていた。

 聖堂のとなりに、修道士の住まいや集会所、食堂の跡などがあった。これらはいまでは礎だけしか残っていない。食堂跡に行くと、「修道士たちはここで大きなテーブルを囲み、オートミールのおかゆやスープの食事をとっていました。私語は厳禁、お互いを見ることもなく、みなうつむいた姿で黙々と器をすすっていたのです」とガイドが言った。

 修道士たちが寝泊まりしていた上階から、聖堂につながる幅のせまい階段が残っていた。ガイドによれば、礼拝は一日5回、行われ、最初は午前2時だった。「修道士たちの睡眠時間は、4,5時間だったでしょう」。彼らは仮眠ののち、真っ暗な闇のなかで起き出し、ロウソクを片手にひとりずつ、厳かにこの階段をおりていったのだ。

 沈黙と瞑想、祈り。そして質素な食事。一日のわずかな空き時間には、修道士たちはめいめい長方形の中庭に出て、聖書を読むなどして過ごしたという。「院内は、真冬でも暖房はなく、唯一、“ウォーミング・ハウス”だけに、あかあかと暖炉がたかれていました」と言って、ガイドは小さな空間に私たちを連れていってくれた。そこは、「暖をとる部屋」、修道士たちは厳しい寒さに耐えられなくなるとその部屋へ行って、いっとき手足を温め、また修行に戻っていったのだ。

 修道院では、最盛期の14世紀初頭には、400人の修道士が暮らしていたという。

 ティンターン修道院は、フランス東部・ブルゴーニュ地方のシトーを本拠とするカトリック修道会「シトー会」の僧院として、もとは1131年に建立された。現在残っている廃墟のほとんどは、13世紀末に大がかりな増改築がなされたときの跡である。シトー会は、カトリック最古の修道会、ベネディクト会から派生した組織で、清貧、従順、簡素など、修道士の生活態度を定めた「聖ベネディクトの戒律」をきわめて厳格に守る団体だった。修道士たちは白い僧衣をまとっていたので「ホワイト・モンク(白い修道士)」と呼ばれた。白ガウンのガイドは、ホワイト・モンクを模倣していたわけだ。

 自給自足が原則で、修道院には修道士のほかに、農作業や建物の修復作業等に従事する「レイ・ブラザーズ (lay brothers、直訳すれば ”俗人の兄弟たち”) 」と呼ばれた労働者も多数、暮らしていた。労働者は地元ウェールズ人の中から雇われ、寝泊まりは修道士とは別にしていたが、戒律への誓いをたて、礼拝には参列していたという。また、礼拝時に讃美歌をうたう聖歌隊の隊員たちも、修道院に住んでいた。

 総勢500人近い集団が、厳格な戒律を守りながら、365日、祈りと労働の日々を送っていたのである。修道院の活動はじつに400年間、続いた。

 ティンターン村の静謐な自然環境と、ワイ川周辺の豊穣な土地は、「神の意思に従う」修道士たちの労働と精神生活には、格好の場所だったのである。修道院には、外部の人は入室禁止だったといい、建物からわずかに漏れ聞こえたのは、聖歌隊のうたう讃美歌と、礼拝をとりしきる司祭の声、それに修道士たちの必要最低限の会話のみ。それらすら、ワイ川のせせらぎと渓谷を訪れる小鳥たちの鳴き声にかき消されるほどの響きでしかなかったのではないか。

 

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(山荘の玄関先に咲いていたフクシア)             (山荘のベゴニア)

 

 ティンターン修道院の栄華は、とりもなおさず、ローマ教皇を頂点として中世ヨーロッパ全域で絶大な影響力を誇っていたカトリック教会の権威の象徴であった。その勢力拡大の手は、当時は大陸北西の辺境地に過ぎなかったイギリスのウェールズにまで伸びていったのだ。
 
 ティンターン修道院ができた時のイギリスは、1066年の「ノルマン・コンクェスト」が起きてしばらく経ったころである。ノルマン・コンクェストは、イングランドが北フランスのノルマン人勢力に征服された、イギリス史上の一大事件である。征服勢力を率いたギョーム2世は、ウィリアム1世(征服王)としてイングランド国王に就任し、くすぶり続けるアングロ・サクソン人の反乱を南から北に向かって順々に鎮圧し、じわじわと「フランス化」を進めた。

 やがてウェールズも、ノルマン人の手中に落ちる。シトー会のホワイト・モンクたちは、こうしたノルマン人の征服と植民の勢いに乗って、ティンターン村にやってきたのである。ウェールズ人の村人たちは、遠い外国からやってきて壮大な修道院を建立したこの白い修道士の集団を、どのような気持ちで見ていたのだろうか。修道院には時折、大陸から監視団が訪れたという。

 しかし、修道院は、16世紀(1536年)に突然、閉鎖の憂き目にあう。ときの国王ヘンリー8世が、ローマ教皇と決別して英国国教会を設立し、国内のカトリック修道院を次々に解体したからである。ヘンリー8世は女官アン・ブーリンと恋に落ち、妻のキャサリン王妃と離婚しようとしたが、ローマ教皇に反対されたため、反旗を翻したのである。折しも大陸では、宗教改革の大あらしが吹き荒れていた。

 修道院の繁栄と衰退は、ウェールズやイングランドの事情を超えて、全ヨーロッパの歴史の大波のなかで起きたのである。

 それにしても、宗教家たちがカトリック教会の教義と組織のあり方を厳しく糾弾して起こした大陸の宗教改革とはちがい、イギリスの改革は、国王の個人的な事情がきっかけで起きた。ティンターン修道院は、生涯で6人の妻を持ったワンマン国王の、なりふり構わぬ振る舞いの余波を被ったようなものだ。沈黙と瞑想のなか、全身全霊で神への奉仕を遂行していた修道士たちにとって、これはまさに青天の霹靂(へきれき)だっただろう。

 しかし、じつはイギリスでも、「宗教改革」が起きる下地はあった。人々の生活は、誕生から死にいたるまで、あらゆる側面を教会に管理されていたうえ、大規模な土地を保有する修道院の富は、地元住民に還元されず、ほとんどすべてローマ教皇のもとへ行っていた。ローマの出先機関にすぎない教会と修道院に対する民衆の不満は、募っていたのである。ティンターン修道院のあったウェールズでも、事情は同じだった。

 外来の権威に強く抵抗する反骨精神は、じつは、ウェールズ人に特有の性質である。ウェールズ人は古代、大陸から移ってきたケルト民族で、5世紀以降にイギリス全土が本格的なアングロ・サクソン人の侵略を受けたとき、頑強に戦い抜いて領土を死守したことで知られる。ノルマン人の征服に対しても、ウェールズ人は最後まで抵抗し、豪族が北部のスノウドニア山地にこもって抗し続けた。イングランドによるたび重なる征服戦争で13世紀末に、ついに降伏したあとも、ウェールズ人は「イングランド化」を嫌って、ひそかに独自の言語と文化を継承してきた。

 ティンターン修道院のあったワイ川河口に近い地域は、ときにこうしたウェールズ人の闘いの最前線となり、15世紀はじめには、反乱の矛先がイングランド国王の保護下にあった修道院にも向かい、建物の一部が破壊される事件が発生している。

 ティンターン修道院の廃墟には、中世ヨーロッパとウェールズの歴史が、ぎっしりつまっているのであった。怒涛のごとく押し寄せる歴史の波に翻弄された、白い修道士たち。廃墟からふと空を見上げると、動かぬ白い雲が修道士の姿に重なり、恨めしそうに上空から廃墟を見つめているような気さえしてきた。

 

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   (ワイ渓谷)


 修道院は閉鎖後200年のあいだ、完全に廃墟と化し、かえりみられることはなかったが、18世紀半ばになってその価値が再び注目されるようになり、建築家や芸術家が多数訪れて廃墟の存在を世に知らせた結果、修復作業が行われるようになった。イギリスを代表する風景画家、ジョセフ・ターナーも18世紀末にこの地を訪れ、廃墟を描いた水彩画を何枚か残している。また、自然を愛したロマン派詩人、ウィリアム・ワーズワースも同じころに訪問し、「ティンターン修道院上流数マイルの地で」という長い詩を書いた。


   穏やかで神聖な気分に包まれて、あふれ出る愛情は私たちを優しく導く。
   そしてついに、からだの息づかいと血のめぐりすらほとんど停止し、私たちの四肢は眠りにつき、
   生きたまま魂となる。


 ワーズワースは、渓谷の静寂に身をまかせ、楓の木の下にたたずんで切り立つ崖や森をながめるうちに、内面から崇高な感情が湧き起こるのを感じ、魂の浄化を経験したのだ。しかし彼はこの風景に、人間の生の悲哀もみてとった。


   思慮深さを欠いた若いころとはちがい、わたしは自然のなかに、
   しばしば静かで、哀しい人間愛の音楽を聴くようになった。


 5年前にもこの地を訪れていたワーズワースは、その後勃発した英仏戦争の影響で、フランス人の妻子と生き別れになっていた。彼は、自らの人生の波乱と激動のティンターンの歴史を重ね合わせ、苦難を超えた魂の救済をそこに見たのではないだろうか。ホワイト・モンクも、村人も、そしてケルトの豪族たちも、みなここで生き、栄えて、果てた。繁栄と衰退、そして消滅。渓谷と森と川、そして廃墟だけが残った。ワーズワースは、変わらぬ自然のなかで静かに横たわる廃墟を見て、繰り返される人間の壮絶なドラマに思いをはせつつ、移ろう人間世界の時空を超えて流れ続ける、人間愛の哀しいメロディーを聴いたのではなかっただろうか。


×××
 

 あれこれ思いをめぐらして、頭も心もはちきれそうになりながら山荘に戻ると、再び赤、ピンク、白、黄の色とりどりの花園に迎えられた。花たちはまるで、そこだけがスポットライトを浴びたかのように、輝きを放っている。裏庭につづく牧草地では、牛がのんびりと草をはんでいた。ああ、花たちは「いま」を生きているのだ、と私はなんとなくほっとした気分になり、いっきょに現代ウェールズに引き戻された。
 
 今日のウェールズは、教育や医療、農業分野などで、ロンドンの中央政府とは異なる政策を次々実行している。ウェールズ語と古来のケルト文化の復活も著しい。かつてイングランドの支配下で使用を禁止されたウェールズ語の習得は、いまやウェールズ人にとって、必須である。長かったイングランド従属から解き放たれて、ウェールズ人は水を得た魚のように元気で、生き生きとしているように見える。ケルトの豪族の自主独立の精神は、現代にも生きているのである。花園に戻って、ようやく私は中世から現代へのつながりに思いをはせることができた。花は過去の喜びも悲しみも振り返ることなく、精いっぱい「いま」を生き、未来に向かって伸びていく。花園の花たちは、現代ウェールズの繁栄を謳歌しているのだ。

 そこまで考えて、私は、この花園はもしかしたら、フレッドさんとアイヴァさん夫妻のさりげない演出なのではないか、と思い至った。山荘に泊まる訪問者は、必ず隣り合わせの廃墟を訪れ、重い歴史にうちのめされそうになって帰って来る。そのときに訪問者が、花園のタイム・マシーンに乗って、花とともにふんわりと、「いま」に戻って来ることができるように、、、。

 そんな心憎い配慮ができるのも、夫妻が苦難の歴史をくぐりぬけてきたウェールズ人だからかもしれない。

 

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(“ホワイト・モンク”に中世の字の書き方を教えてもらう息子)

 

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(ピンクのフクシア)