悠久のハリエニシダ


2013年1月25日


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(ウィンブルドン・コモンに咲いていたハリエニシダ)


 2013年、元日の朝、イギリスの冬には珍しく、太陽が顔を出した。明るい陽光に誘われて家族と一緒に自宅近くの公園、ウィンブルドン・コモンへ出かけると、野原にハリエニシダの花が咲いていた。

 花は三分咲きほどだったが、厳冬の冷気に負けまいと、小さな花びらを懸命に開いている。その健気な姿は、新しい年を祝福しているかのように見え、穏やかな元日にふさわしく思えた。

 ハリエニシダは、通常、イギリスの田舎に生育する灌木で、荒地や山道、放棄された牧草地などを好む。都会にあるこの公園で咲いていたのは、公園内では田舎同様の自然環境が保たれているからであろう。ウィンブルドン・コモンは、かつてこの地域の領主の私有地だった土地が、19世紀末に市民の共有地となって開放されたもので、460ヘクタールの広大な敷地のなかに、野原のほか森や川、湖まである。

 イギリスの地方に行くと、寒々とした荒野や海岸に、ヒースとともにハリエニシダの黄色い花が、点々と遠くまで咲いている風景をよく目にする。花が満開になるのは春だが、1年を通じていつも少しだけ花をつけているのが、この低木の特徴である。亡き義母の生まれ故郷だったイギリス北部・ヨークシャーの原野で、群生するハリエニシダが真冬に開花しているのをかつて、見たことがある。ハリエニシダは、大自然に生きる、たくましい野生の花なのである。

 4年前の冬、家族とともに訪れた南イングランドの地、ヘイスティングスの丘にも、ハリエニシダが咲いていた。

 

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 ヘイスティングスは、ロンドンから南東に約85キロ、英仏を隔てるイギリス海峡に面した港町である。11世紀初め、海の向こうからフランス・ノルマンディーの大軍が襲来してこの地に上陸し、またたく間にイングランド国王軍を打ち破って征服した。この戦いは、ノルマン・コンクェスト(ノルマン人による征服)と呼ばれ、イギリス史上の大事件であった。戦闘の勃発した1066年(テン・シックスティ・シックス)は、「アングロ・サクソン人のイングランドが死に、ノルマン人支配のイングランドに生まれ変わった年」として、イギリス人の意識に深く刻み込まれている。

 戦いの起きた「バトルの丘」は、ヘイスティングスの少し北にあり、ほぼ千年後のいまも開発されずに、当時の姿のまま保存されている。2009年2月、私はその丘の上に立ち、古(いにしえ)の歴史的大事件に思いをはせていた。海辺からの潮風を妨げるものは何もない、吹きさらしの丘。ところどころに枯れ木が立ち、見渡す限り雑草の生い茂る荒れた斜面に、ハリエニシダがあちこちで群をつくって咲いているのが、目についた。記念館が建つほかは、人工の手が何も加えられていないのは、当時の雰囲気をそのまま現代人に伝えようという意図からであろうが、野生のハリエニシダは、その殺風景な風景によく溶け込んでいた。

 「ヘイスティングスの戦い」前のイングランドは、統率力のない国王(エドワード懺悔王)の下で、封建諸侯が勢力争いを続ける弱小国であった。実子のいない国王が死去し、王妃の兄がハロルド2世として国王になると、周辺諸国から侵略の触手が伸び、なかでも前国王の遠縁にあたるノルマンディー公国のウィリアム公は、自分こそが王位継承権のある人物だと主張して、王位略奪の実力行使に出たのである。その直前、イングランド北部・ヨークでノルウェー軍の襲撃に対処していたハロルド2世は、ウィリアム軍上陸近し、の知らせを受けて、ヨークからわずか4日間でヘイスティングスに急行し、軍隊を集結したのである。

 記念館で借りた音声ガイド機を耳にあて、生々しい戦闘の様子を聞きながら、丘の斜面をめぐった。

 「1066年10月14日、土曜日。丘のふもとに3列の布陣を張ったウィリアム公の1万人を超える軍隊と、頂上に戦闘用の斧と盾を持って並んだハロルド2世の5000人の部隊が、早朝からにらみ合いを続けた」と、音声ガイドが説明する。

 

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(バトルの丘のハリエニシダ) (バトルの丘)

 

   

 午前9時、静寂を破るように、ウィリアム勢最前列の弓術部隊から、びゅんびゅんと弓矢が放たれた。しかし、イングランド軍の“盾の壁”は厚く、崩れない。

 「戦いがこう着状態に陥った昼ごろ、ノルマンディー軍のあいだに“ウィリアム公死亡”のうわさが駆けめぐった。ノルマンディー軍がろうばいして後退しはじめたため、イングランド兵らはいっせいに斧を振りかざし、大声を上げながら、逃げるノルマンディー兵を追いかけるようにして、丘の中腹に駆け下りていった」。

 音声ガイドの緊迫した声とともに、私も急ぎ、丘の中腹へ駆け下りる。

 「その時、ノルマンディー軍最後列の騎馬隊のなかにいたウィリアム公が、馬上で兜(かぶと)を脱いで顔を見せた。“見よ、私は生きている。神とともに、我々は勝利して征服するのだ!”。ウィリアム公が叫ぶと、ノルマンディー軍は再び活気づいて丘を駆け上がり、イングランド兵を次々と殺害していった」。

 ウィリアム軍とイングランド軍がいまやバラバラになって混じり合い、死闘を繰り広げた地点を、音声ガイドの指示に従って、右に左に、上へ下へと移動しながら、見て回る。まるで弓矢の飛び交う戦場にいるかのような臨場感に浸りながら、音声ガイド機を握る手にも力が入った。

 やがてハロルド2世が倒れて、絶命。夜の帳(とばり)が下りると、イングランド兵たちは散り散りに、闇のなかに消えていった。国王軍は敗北し、ウィリアム公は勝利ののろしを上げたのである。ウィリアム公はハロルド2世の遺体を確認し、1週間後、ロンドンに凱旋して、ウエストミンスター寺院で即位。「ウィリアム征服王」となって、イングランド支配を開始した。

 

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(バトルの丘に咲いていたハリエニシダ) (バトルの丘)

 

 音声ガイドを聞きながら丘をめぐるあいだ、私はハリエニシダの灌木が張り出す道を登ったり降りたりした。横に移動する時は、ハリエニシダの群落に分け入って、ガイドの導く地点まで行った。ハリエニシダは、すっかり戦闘地の光景の一部になっていた。いったい、1066年にも、ハリエニシダはこの丘に生え、兵士らとともに死闘の血にまみれたのであろうか。野生のハリエニシダは、親戚関係にある都会のエニシダとちがって、葉をもたず、全身に棘をまとっている。だから「ハリエニシダ」の名前がついたのだが、この棘はもともと、野獣に食されるのを防ぐための防衛本能から、葉が変化したものだった。戦いのとき、この丘にハリエニシダが生えていたなら、兵士たちは灌木に隠れるようにして、襲撃に備えたのではないか。兵士はみな死んだが、棘に護られたハリエニシダは、生き延びたであろう。

 棘が野獣を寄せつけないので、ハリエニシダの群落のなかは安全で、鳥たちが巣をつくる。ウィリアム公は、戦死したおびただしい数のイングランド兵の遺体を、何日も丘の上に放置したという。群落は、せめて絶命した兵士たちを風雨から護る役割は果たしたであろう。

 生命力の強いハリエニシダは、戦闘に耐えて、その後も人間の手の入らない丘に残り、子孫を増やしていったのではないだろうか。悠久の時間を生き抜いた、歴史の証人。ハリエニシダの一族は、時代が変わっても静かにしたたかに、変わらぬ姿で咲き続けたのにちがいない。

 バトルの丘の頂上に、ハロルド2世の記念碑があった。敵の弓矢にあたって死亡したとされる地点だ。その背後に、ウィリアム征服王の勝利を記念して建立されたチャペルの遺跡がそびえる。ハリエニシダの花言葉は、「屈従」である。ハロルド2世と、戦闘に散ったイングランド兵士たちの無念と怨念を、丘のハリエニシダはその身に刷りこみ、1000年の時を経たいま、静かに国王の終焉地を護っているかに見えた。

 長いあいだ、ハリエニシダと暮らしをともにしてきたイギリス人は、この丈夫な灌木を牧草地の囲いにしたり、暖炉の薪としてくべたほか、すりつぶして家畜のえさにするなど、さまざまに利用した。また、花は染料として使われたほか、サラダやお茶として飲食され、腎臓病や黄疸の治療にも使われたという。しかし、ハリエニシダを束にして家の中に持ちこむことだけは、「縁起が悪い」と言ってきらい、避けた。人々は無意識のうちに、この植物にハロルド2世と兵士らの怨念を感じ取ったのかもしれない。

 

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(ウィリアム公の勝利を記念するチャペル跡) (ハロルド2世の終焉地)

 


 とは言っても、イングランドはその後、ウィリアム征服王の下で発展することになったのだから、歴史は皮肉に満ちている。ウィリアム王は、即位後、アングロ・サクソン人領主たちから領土を次々に取り上げ、戦いに参加したノルマンディー軍将校らを領主につけた。そして、ノルマンディーから持ち込んだ政治制度や法制度を整備して、じわじわと王権国家を築いていった。上流階級では英語に代わってフランス語が話され、それが次第に庶民の英語と混じり合って、近代英語がつくられる基礎となった。つまり、ウィリアム王は、ヨーロッパの辺境地に過ぎなかったイングランドを一人前の国家にし、後に大国へと発展させていく礎を築いたのである。

 ハリエニシダは、そんな歴史の長い道のりを、原野や丘、海辺で生育しながら、あるいは人々の暮らしのなかで生き続けながら、途絶えることなく黙って、見守ってきたのではないだろうか。


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 そもそも、私が家族と一緒にヘイスティングスを訪れたのは、さかな屋のおじさんの紹介だった。おじさんは、新鮮な海の幸を毎週、ヘイスティングスから私たち家族の住むウィンブルドンまで届けてくれる、フィッシュ・モンガー(さかな屋)のテリーである。
 
 さかなのおいしさが評判になり、テリーが来る朝は、街の小さな広場に停まる白いバンの前に、早朝から長い列ができる。タラやサーモン、タイ、サバ、イワシ、それに、とびきり大きいクルマエビ。どれをとっても間違いがない。たとえばサバを注文すると、テリーは片手でサバの頭をつかみ、しっぽを上にして、ピンと逆さに立たせる。新鮮でなければ、こんなに勢いよくまっすぐには立たない。しかも脂がのって、その身は青々と光っている。テリーは自分の売るさかなには、強い自信と誇りを持っているのだ。

 イギリスに来てから、スーパーで買うさかなが日本のものほど新鮮でないことに、私は常々不満を持っていたが、この国でもこんなに新鮮なさかなが手に入ることを知って以来、さかなはすべてテリーのところで、と決めた。

 

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(ヘイスティングスの海辺。ウィリアム軍はこの海を越えて上陸した)

 

 顔なじみになると、テリーはさかなの味にうるさい日本人の私に、あれこれ耳打ちしてくれるようになった。

 「今日のイワシはベストではないから、やめておいたほうがいい。来週、いいのを持ってくるよ」。 「今朝のホタテは、サシミで食べられるほどのノリだ」 ―― といった具合である。

 そのテリーがある日、「ヘイスティングスに行けば、おいしいさかな料理が安く食べられる」と言うので、穴場のレストランや食堂をいくつも教えてもらい、出かけて行ったのだった。彼の言葉通り、ヘイスティングスでは美味なさかなをたらふく食べたうえ、歴史的事件の実地体験までできた、というわけだ。白身のさかなを油であげて、フライドポテトと一緒に食するイギリスの伝統料理、「フィッシュ・アンド・チップス」は、国内のどこでも食べることができるが、いまだに私は、ヘイスティングスの海辺で食べたフィッシュ・アンド・チップスほどおいしいものに、出会ったことがない。

 元漁師のテリーは、午前2時半に起きて海辺の魚市場に行き、とりたてのさかなをひとつひとつ自分の目で確かめて仕入れる。さかなの質に関しては絶対に妥協せず、なじみ客の信用を何よりも大事にする。日本製のサシミ包丁をシャッ、シャッと研いでさかなをさばく姿は、根っからの職人である。テリーは40年近く、こうやって頑固に自分のやり方を変えずに、職人魂を通してきたのだ。

 テリーのひとり息子も、父親のあとを継いで、やはりフィッシュ・モンガーになった。息子はテリーが数年前に60歳を超えてから、しばしば代わりにウィンブルドンにやって来た。ビニール製の黒いエプロンをつけた息子は、銀色の包丁を光らせて、見事な手つきでさかなをさばいた。息子の包丁さばきは、親父にそっくりである。職人の少なくなった現代では、頑固な職人気質(かたぎ)に接することは、あまりない。機械ではぜったいに伝えることのできない職人魂が、テリーから息子へ、と確実に受け継がれているのを見て、私はなんだか嬉しくなった。 

 ハリエニシダの咲くヘイスティングスから毎週やって来る、テリーと息子。悠久の時間を生き延びたハリエニシダの強靭な生命力は、親から子へと職人芸が伝えられていくこのような営みのなかにも、しっかりと生きているのだと思った。

 

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(さかな屋のテリー)              

  

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(満開時のハリエニシダ)